レビュー

第2回 問題提起型の展覧会へ

講座シリーズ「アート&テクノロジーの概念構築」では、本プロジェクトの目標でもある「藝術と技術の相対化」「西と東の相対化」の前提となる課題を議論しています。ここでは藤幡正樹氏とゲストによるレクチャーの一部を、人文ライターの斎藤哲也氏によるレビューで紹介します。受講生には今後、抄録の提供も予定しています。

執筆:斎藤哲也

第2回「問題提起型の展覧会へ」

「教養」としての陳列会から「思考実験」の現場へ

「展覧会」と聞いたとき、私たちは何を思い浮かべるだろうか。権威ある美術館から名画が運ばれてきて、それをありがたく拝見する。藤幡正樹は講座の冒頭で、日本で行われてきた展覧会の多くが、そうした「教養としての美術」の域を出ていないのではないかと問いかける。

「たとえばモネやゴッホの作品が日本に来ると、大勢の人が来場する。これは、地方に新しい公民館ができたときに、美空ひばりを呼んで歌ってもらうのとあまり変わらない。それ自体は悪いことではないし、いいものを学ぶことは大切です。ただ、その背景として、こちらとは何の関係もないものが、切り離された形でやってくるという構造になっている」。

本プロジェクト「藝術と技術の対話」が目指すのは、この比喩が示すような、既知の正解を確認する「陳列会」ではなく、未解決の問いを観客の眼前に突きつける「問題提起型の展覧会」だ。

今回の講師である大久保美紀は、そんな「問題提起型」の先例として、二つの記念碑的な展覧会を提示した。1985年の『Les immatériaux(非物質的なもの)』展と、2016年の『Reset Modernity!(リセット・モダニティ!)』展である。その中心人物は、ジャン=フランソワ・リオタールとブルーノ・ラトゥール。いずれも当時のフランスを代表する哲学者だ。

なぜ哲学者が展覧会を作るのか。藤幡は、日本の「『哲学』学者」とヨーロッパの「哲学者」の違いに触れながらこう語る。「日本の先生の多くは哲学者というより哲学研究者で、海外でどんな哲学が流行っているかには詳しいけれど、自分自身の哲学で勝負している人は少ない。でもヨーロッパの哲学者は違う。彼らは身を削って、他の哲学者と本気で議論を交わしている」。

彼らにとって展覧会とは、安全圏から知識を披露する場ではない。同時代の思想的闘争に観客を巻き込み、問いを投げかけ、共に考え、議論する思考装置として、展覧会が構想されているのである。

マニフェスタシオンとしての展覧会――『Les immatériaux(非物質的なもの)』展

一つ目の事例、リオタールによる『Les immatériaux(非物質的なもの)』展は、まさにその哲学的挑戦の記録だ。同展は、哲学者のジャン=フランソワ・リオタールとパリのインダストリアル・デザイン・センター(CCI)のデザイン史家・理論家のティエリー・シャピュが中心に準備を進めてきた企画に対し、後から参画したリオタールがそのコンセプトを大幅に修正する形で、パリのポンピドー・センターで1985年に開幕した。

緑の背景に指紋をモチーフにしたグラフィックが描かれた『Les immatériaux(非物質的なもの)』展のポスター。ポンピドー・センター、1985年。デザイン:Grafibus。
『Les immatériaux』展のポスター(1985)
出典:© Centre Pompidou. Conception graphique : Grafibus

リオタールはこの展覧会を、完成品を見せる「エクスポジション(Exposition)」ではなく、デモ行進や宣言を意味する「マニフェスタシオン(Manifestation)」と呼んでいた。この言葉の選択に、藤幡も強く反応する。「エキシビションは『露出』だから、ある程度認められたものを見せるニュアンスがある。でもリオタールがやったのは、まだ認められていないものをあえて宣言することだった」。

大久保が解説するように、リオタールといえば、1979年の『ポスト・モダンの条件』によって一躍注目を集めた哲学者であり、近代が信じてきた進歩史観や普遍的理性、いわゆる「大きな物語」の終焉を告げた人物として知られている。『Les immatériaux』展は、『ポスト・モダンの条件』で提示された問題意識を、理論ではなく空間と身体の経験として突きつけるラディカルな実践だった。

『Les immatériaux』が扱ったのは、単に「新しい素材」や「先端技術」ではない。むしろ問題にされたのは、情報技術やテクノサイエンスの進展によって、人間と物質、身体と環境、知と感性の関係そのものが書き換えられつつある、という不安定な状況だった。物質はもはや堅固で自明な基盤ではなく、コードや信号、ネットワークを介して、流動的で捉えがたいものへと変貌しつつある。その変化を、概念として「理解」させるのではなく、「迷い」や「混乱」として体験させること——それがこのマニフェスタシオンの狙いだった。

会場構成も挑発的だ。順路はなく、金網(グレーチング)が天井から吊り下げられ、視線は透過するものの空間は迷宮のように区切られている。観客は赤外線ヘッドホンを装着し、そこから流れるカフカやベケットのテクスト、哲学的な問い、あるいは雑音に晒される。大久保はこれを、あえて「コミュニケーションの困難さ」を作り出し、観客を安易な共感から引き剥がして「孤独」な思考へと突き落とす装置だったと読み解く。

半透明のガラスパネルが迷宮状に並ぶ『Les immatériaux』展の会場写真(白黒)。来場者がパネルの間を歩いている。
『Les immatériaux』展の会場風景(1985)
出典:Jean-Louis Boissier氏ウェブサイトより

さらに特筆すべきは、この展覧会がインターネット普及前の1985年に開催されている点だ。従来型のカタログとは異なる記録集『Épreuves d’écriture(エクリチュールの試練)』は、当時フランスで広く普及していた通信システム「ミニテル」を使い、デリダやラトゥールといった思想家たちがリモートで議論したログによって構成された。藤幡は、このフランス特有の技術環境に注目する。

記録集『Épreuves d'écriture(エクリチュールの試練)』の目次ページ。「Artificiel」「Auteur」「Code」など哲学的キーワードがアルファベット順に並び、日付と著者・セクションコードが記されている。
出典:記録集『Épreuves d’écriture(エクリチュールの試練)』より

「フランスって不思議な国で、ルーヴルみたいな古いものを大事にする一方で、軍事技術やミニテルのようなハイテクもすごく早い。その落差こそが面白い」。

パソコン通信すら一般的でなかった時代に、ネットワーク上の議論の場を展覧会の一部として実装してしまう。ここにも『Les immatériaux』展の実験性がよく示されている。

近代をリセットせよ!――『Reset Modernity!(リセット・モダニティ!)』展

大久保の挙げる二つ目の事例は、2016年にドイツのZKM(カールスルーエ芸術・メディア・センター)で開催された、ブルーノ・ラトゥールによる『Reset Modernity!(リセット・モダニティ!)』展だ。

ZKM『Reset Modernity!(リセット・モダニティ!)』展の会場風景。文書や写真などの資料が広げられた大型テーブルを複数の来場者が囲み、資料を眺めている。
『Reset Modernity!(リセット・モダニティ!)』展の会場風景(ZKM、2016) © ZKM | Center for Art and Media, photo: Michael M. Roth 出典:ZKM「GLOBALE: Reset Modernity!

同展のタイトルにある「近代(modernity)」とは、自然と社会、主体と客体、人間とモノを明確に分離できるという前提の上に成り立ってきた思考の枠組みだ。しかしラトゥールによれば、現実の世界は常にそれらが混じり合った「ハイブリッド」によって構成されてきた。にもかかわらず、近代はその混成性を見ないふりをし、あたかも純粋な主体や客観的自然が存在するかのように振る舞ってきた。その虚構が、気候変動や環境破壊、科学と政治の不信といったかたちで限界に達している――それがラトゥールの問題意識である。

『Reset Modernity!』展は、そうした思想を理論として「説明」するためのものではない。むしろ、観客自身の感覚や思考の前提を揺さぶり、「近代的に考えてしまう癖」そのものをリセットするための装置として構想されている。だからこそ、展覧会の入り口で手渡されるのは、完成された理解を与えるパンフレットではなく、「フィールドブック」なのだ。

フィールドブックには、六つの「手順(procedure)」が記されている。観客はそれに従いながら、展示空間を移動し、資料を読み、映像や作品に向き合い、自分自身でメモを取り、問いを立てることを求められる。ここでの観客は、鑑賞者というよりも、調査者、あるいは実験の参加者に近い。大久保が言うように、この展覧会は「見せる」ものではなく、「一緒に考える」ための場なのだ。

この点で、『Reset Modernity!』は、『Les immatériaux』展と明確な連続性を持っている。どちらも、展覧会を完成された成果の提示ではなく、未完の思考過程として位置づけている。結論は与えられず、観客は問いの只中に放り込まれる。

大久保は、このような展覧会のあり方を、「思考実験型」と呼ぶ。『虚構の近代』以降、西洋的二元論に依拠した世界観に異を唱え続けてきたラトゥールは、その晩年を惑星規模のエコロジーに向き合う展覧会実践に捧げている。『Reset Modernity!』 に続く『Critical Zone』 でもこうしたアプローチは引き継がれている。そこで試されているのは、近代以後の世界をどう捉え直し、どこに「着陸」するのかという、切実な問いである。

藤幡は、ラトゥールが専門外の展覧会という形式を選び、学生やアーティストと対話しながら作り上げていったプロセスに可能性を見ている。「先生然として教えるんじゃなくて、『僕も分からないんだ』と言いながら一緒に考える。そういう空気が重要なんだ」。

「テーブル」を囲むための対話へ

これら二つの展覧会はどちらも、一見すると難解に思えるかもしれない。分かりやすいメッセージや結論を用意し、観客を安全に導くのではなく、あえて足場を外し、立ち止まらせ、考えさせる。その不安定さの中で初めて、観客は「自分はどの前提に立って世界を見てきたのか」「何を当たり前だと思い込んでいたのか」を問い返すことになる。

大久保と藤幡の対話から浮かび上がってくるのは、展覧会を「答えを示す場」ではなく、「問いが置かれる場」として捉え直そうとする姿勢だ。それは、キュレーターや作家が上位に立ち、観客に理解を促すという従来の構図を崩し、誰もが同じテーブルにつき、同じ不確かさを引き受ける関係へと踏み出す試みでもある。

本講座で紹介された二つの事例は、そのテーブルの貴重なサンプル集である。とはいえ、サンプルはサンプルであり、リオタールやラトゥールを真似たところで、問題提起型の展覧会が実現できるわけではない。藤幡も言うように、「西洋近代をちゃんと知った上で、その間違いを、僕たち自身が修正できないか」という問いを、私たちの足元から発しなければならない。また大久保は、日本における近代の文脈、すなわち、文化的脱植民地闘争の実態において芸術が持つポテンシャルを思考する重要性を強調する。さらに、「分泌物としてのテクノロジー」という独特の観点から、「展覧会のエコロジー」を思考しようという提案も興味深い。今回の講座は、こうした答えのない課題に取り組むための、最初の足場を整えるものだったのではないだろうか。

執筆者プロフィール

斎藤哲也

斎藤哲也
人文ライター。1971年生まれ。人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。編著書に『哲学史入門Ⅰ~Ⅳ』(NHK出版新書)、『試験に出る哲学』(同前)など。編集・構成に『日本メディアアート史』(馬定延・アルテスパブリッシング)、『新記号論』(石田英敬、東浩紀・ゲンロン叢書)、『中国哲学史──諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中島隆博・中公新書)、『ものがわかるということ』(養老孟司・祥伝社)ほか多数。

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