レビュー

第3回 技術とワザの違い

講座シリーズ「アート&テクノロジーの概念構築」では、本プロジェクトの目標でもある「藝術と技術の相対化」「西と東の相対化」の前提となる課題を議論しています。ここでは藤幡正樹氏とゲストによるレクチャーの一部を、人文ライターの斎藤哲也氏によるレビューで紹介します。受講生には今後、抄録の提供も予定しています。

執筆:斎藤哲也

第3回「技術とワザの違い」

「テクノロジー」を「技術」と訳したことの問題

日ごろ、私たちは「テクノロジー」とその訳語である「技術」を、ほとんど同義で用いている。しかし、この二つの言葉の背後には、全く異なる歴史と世界観、そして身体へのまなざしが隠されている。本講座は、この翻訳に伴う概念の錯綜を解きほぐすことから始まった。

日本が近代化する過程のなかで、私たちは西洋文化の産物である「テクノロジー」を、その背景にある思想や宗教観を捨象したまま、実用的な道具としてのみ導入してきた。しかし、今回の講師である原島大輔が「テクノロジーというのはあくまで西洋文化、ヨーロッパ文化の産物であると認識することが重要」と語るように、それは決して中立的なツールではない。テクノロジーを使用すること自体が、特定の西洋的世界観を内面化させる力を持っている。そこでは自然や人間が、コントロール可能な「資源」として扱われる。

藤幡正樹は、「キリスト教のGodを『神』と訳してしまったように、翻訳が単なる漢字への置き換えになってしまったことが決定的な問題を残している」と指摘する。

テクノロジー(Technology)の語源は、ギリシャ語の「テクネー」と「ロゴス」の合成に求められる。ロゴスはロジックの語源だ。テクネーはものを作る技芸や知恵を意味していたが、そこに「論理」を意味するロジックが結びつくことで、個人の身体から切り離され、自律して世界を自動化していく力、すなわち「テクノロジー」が誕生した。

一方、日本語の「技術」は、「技(ワザ)」と「術(手立て)」という二文字から構成されている。藤幡がとりわけ強調するのは、この「ワザ」とは本来、「自分の体と切り離せないもの」であるという点だ。

「例えば、鉛筆を削る時に、最初は上手に削れないんだけど、何度も繰り返すうちに上手に削れるようになる。できなかったことができるようになる実感」、その「体につく喜び」を伴うものが「ワザ」であると藤幡は語る。

西洋から到来したテクノロジーを「技術」と翻訳し、精神性を切り離して「和魂洋才」として受容してきたことは、日本の近代化における根本的な誤算であった。この「ワザ」の感覚が失われ、思考さえも自動化していく状態への強い危機感が、本講座の底流には流れている。

言語学的転回から情報学的転回へ

私たちがテクノロジーに絡め取られている現状を俯瞰するため、原島は20世紀から21世紀にかけての「知の大転換」という思想史の見取り図を提示する。

初期近代において、知の根拠とされていたのはデカルトの「我思うゆえに我あり」に象徴される人間の「意識」や「理性」であった。デカルトは、視覚も聴覚も、あるいは数学的法則すらも疑わしいと考えた末に、ただ「思考している自分自身の存在」だけは疑いようがないとし、それを盤石な知の基盤とした。

しかし、無意識の発見や二度の世界大戦という未曾有の危機を経て、絶対的とされた意識は揺らぎ、20世紀の思想は知の基盤を「言語」に求めるようになった。これがいわゆる「言語学的転回」と呼ばれるものだ。

原島によれば、「言語学的転回」には二つの潮流がある。一つは、数学的・客観的な記述を徹底し、のちの人工知能(AI)研究の礎となる論理実証主義。もう一つは、ソシュールやレヴィ=ストロースらに代表される、「言語共同体ごとに世界の捉え方は異なる」とする文化相対主義や構造主義である。後者によって、私たちは「普遍的なヨーロッパ的発展」という単一の歴史観から脱却し、文化の多様性という価値観を手に入れた。

そして21世紀、知の基盤は言語から「情報」へと再び移行する「情報学的転回」を迎えている。西垣通氏の提唱を引きながら、原島はこの転回もまた二つの方向性に分かれると論じる。

一つは「機械論的情報学(コンピューティング・パラダイム)」である。これは情報を形式的な記号操作や計算処理とみなし、世界を計算可能な操作対象として立ち現れさせる立場であり、現在のAIへと至る系譜である。もう一つが「生命論的情報学(サイバネティック・パラダイム)」であり、こちらは情報を外部から与えられて処理されるものではなく、生き物が生命活動の内部から自発的に形成する「意味」や「価値」の生成(in-formation)であると捉える立場だ。原島は、「information(インフォメーション)を『情報』と訳すと見えにくいが、本来は内在的(in)に意味や価値を形成(formation)していく働きのことだ」と解説してくれた。

機械論的情報学の限界

現代社会を席巻するAIの歴史は、そのまま機械論的情報学の限界を示す歴史でもある。1950年代から三度のブームと二度の「冬の時代」を繰り返してきたAIは、一貫して「意味を理解するとはどういうことか」という未解決の難問(フレーム問題や記号接地問題)に直面し続けてきた。

現在のチャットAIについて原島は「言葉の意味を理解しているのではなく、確率的に記号を並べ替えているだけだ」と指摘する。これに対し藤幡も、「自分の子どもが3、4歳のときに水道の水に触って『冷たい』と実感した。あれこそが水を理解しているということだ。身体のないAIは、言葉で書かれたものを知っているかのように言うだけだ」と、身体を通じた実感の重要性を強調した。

ここで議論は、AIと対置され、対抗文化として期待されてきた「IA(知能増幅:Intelligence Amplification)」へと移っていった。パソコンやインターネットを牽引したIAは、個人の知を拡張し、民主的な市民革命をもたらすと思われていた。藤幡自身も90年代のマルチメディア黎明期を振り返り、「自分の中で脳みそが大きくなっていくような、コツコツ作る喜びがあった」と語る。

しかし現在、Web2.0やWeb3と名を変えながらも、インターネットはプラットフォーム資本主義による監視と制御の世界へと変貌した。なぜ理想は潰えたのか。原島は、「実はAIもIAも、『機械論的情報学』という同一の根っこにあり、自然や他者を計算可能な対象としてコントロールする『力としてのテクノロジー』という本質を共有していたからだ」と鋭く指摘する。事実、マウスの発明者であるダグラス・エンゲルバートが、原爆開発(マンハッタン計画)への関与に対する実存的な罪悪感から、日本への招聘を長年拒んでいたという藤幡のエピソードは、情報技術が本質的に軍事や支配の力と結びついていたことを象徴している。

生命論的情報学――意味と価値を生み出す身体と風土

では、機械論的情報学を乗り越えるにはどうしたらいいのだろうか。ここで原島は、マルティン・ハイデガーの技術哲学を批判的に紹介した。

テクノロジーが世界を覆い尽くす現状に対し、ハイデガーは近代技術の本質を「総かり立て体制(Gestell)」と呼んだ。「総かり立て体制」とは、自然環境のみならず人間自身をも資源として編成してしまう巨大なシステムのことをいう。

しかし原島は、「ハイデガーの処方箋は古代ギリシャのテクネーに回帰するものだが、『お前にとって世界はヨーロッパしかなかったのか』と問い詰めたくなるほど狭い」と批判する。

現代の危機において必要なのは、ユク・ホイ氏の『中国における技術への問い』が示したように、唯一の普遍的なものと思い込まされている西洋のテクノロジーを相対化することだ。そして、その延長にある機械論的情報学を根底から捉え直し、意味の源泉を探究するのが「生命論的情報学」であることを原島は力説した。

生命論的情報学では、意味や価値とは外から与えられるものではなく、生き物が身体を持った生命活動を通じて自発的に形成するものだと考える。原島は椅子に座る行為を例に挙げる。「私たちは誰かに『これが椅子だ』と説明されて座るわけではない。腰や足の関節が曲がり、重力を受けて疲れを感じる身体を持っているからこそ、『ここに腰を下ろせる』という椅子の意味が立ち現れる」。

生物学者のユクスキュルが提唱した「環世界(Umwelt)」が示すように、生き物はそれぞれ固有の意味に満ちた世界を生きている。この環世界を構成する「ワザ」としての技術は、共同体の歴史や「風土」に深く根ざしている。原島は自らの体験として、「西表島のジャングルに行くと、自然は恵みを与えてくれると実感する」と語る。

一方で、テクノロジーが誕生したのは「自然が自分たちを殺しに来る過酷な砂漠」であり、自然を対象化し克服しなければ生きられなかったからこそ生まれた必然性があったと指摘する。テクノロジーを真に理解するためには、それが特定の歴史と風土から生じた文化的な産物であるという実存的な対話が不可欠である、と。

「個体化」という思想

この連続講座では、故郷回帰でも比較文化でもないかたちで、技術の未来を構想することの重要性が繰り返し語られてきた。本講座の最後に、原島はその手がかりとして、フランスの哲学者ジルベール・シモンドンやホイらが提唱する「個体化」という概念を挙げた。

これまで技術の変化を捉える中心的な概念は、ヘーゲル的な「弁証法」であった。「弁証法は、自分を否定してくる他者と対立し、矛盾を総合して次のステージにレベルアップしていく。しかし「それは強い主体が他者を同化するプロセスだ」」と原島はいう。

それに対して「個体化」は、「互いに相容れない矛盾や対立を抱え込んだまま、全体として流動的に変化し、新たな準安定状態を形成していく」というダイナミックなプロセスである。

そのようにして、将来もしテクノロジーが進歩発展ではなく「個体化」をなしとげるとしたら、そのとき技術にとっての課題はまずもって「永遠平和」になるのではないかと原島は問いかけた。

「個体化」の議論を受けて藤幡は、プロジェクトの最終的な目標である「展覧会」に向けて、「出来上がった知性の結果を提示し、受け手がそれを読み解くという従来の形式そのものを壊さないといけない」と語った。「日本的」という故郷への単なる回帰に陥ることなく、来場者が自らの身体とワザを通じて新たな意味の世界を「個体化」していく。本プロジェクトの目指す展覧会では、そういった現在進行形の経験の「場」を生み出すことが求められている。

執筆者プロフィール

斎藤哲也

斎藤哲也
人文ライター。1971年生まれ。人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。編著書に『哲学史入門Ⅰ~Ⅳ』(NHK出版新書)、『試験に出る哲学』(同前)など。編集・構成に『日本メディアアート史』(馬定延・アルテスパブリッシング)、『新記号論』(石田英敬、東浩紀・ゲンロン叢書)、『中国哲学史──諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中島隆博・中公新書)、『ものがわかるということ』(養老孟司・祥伝社)ほか多数。