レビュー

第5回 西洋と東洋を超える情緒

講座シリーズ「アート&テクノロジーの概念構築」では、本プロジェクトの目標でもある「藝術と技術の相対化」「西と東の相対化」の前提となる課題を議論しています。ここでは藤幡正樹氏とゲストによるレクチャーの一部を、人文ライターの斎藤哲也氏によるレビューで紹介します。受講生には今後、抄録の提供も予定しています。

執筆:斎藤哲也

第5回講座「西洋と東洋を超える情緒」

毎回、藤幡正樹氏の闊達なトークから始まる本講座だが、今回はいささか様子が違った。

「現実のテクノロジーが、僕らが想像している100倍くらい早く先行ってしまって、取り返しがどんどんつかなくなっていくっていう感じが半端ないですよね。考えれば考えるほど半端なくて、『西と東』などと言ってる場合じゃない状態だと思いませんか」

テクノロジーと結びついた世界情勢は、我々が悠長に芸術論を語ることを許さない速度で変化している。2026年2月28日に起こったアメリカ、イスラエルによるイランへの軍事攻撃を目の当たりにし、藤幡氏は「メンタル来ちゃってます」と率直に明かす。

アメリカの艦隊が中東へ向かい、手薄になった隙を突くように、中国が台湾周辺で軍事的威圧を強めている。現実の戦争がテクノロジーによって駆動され、ドローンやAIが人間の生死を決定づける現状において、「ちょっとこんなことやってる場合じゃないよって感じがすごくする」という危機感が、今回の講座の出発点となっている。

講座は、当初予定していた内容を変更し、生成AIの基盤テクノロジーであるLLM(大規模言語モデル)を情報科学の歴史の中に位置づけるところから始まった。

LLMは“新しいOS”になった

テスラやOpenAIでAI開発を主導したアンドレイ・カルパシーの分類によれば、かつての「Software 1.0」の時代、人間はプログラミング言語を用いて機械に順序立てて命令を下していた。続く「Software 2.0」は、ニューラルネットワークにデータを与え、機械自身を「訓練」する段階である。「洗濯機にこうやってと言って洗濯物やってもらっていたのが、次は犬を飼っているみたいな感じになる」と藤幡氏は喩える。

そして現在、我々が直面している「Software 3.0」、すなわちLLMの段階では、自然言語で「プロンプト」と呼ばれる質問を投げかけるだけで機械が動く。ここで藤幡氏がカルパシーを参照しながら強調するのは、LLMが単なるアプリケーションの枠を超え、コンピューターの「オペレーティングシステム(OS)」、すなわちプラットフォームそのものになったという点だ。

従来のOSがメモリ管理、演算処理、ユーザーインターフェースを担っていたように、LLMは「コンテキストウィンドウ」で記憶を管理し、「トランスフォーマー」で演算処理を行い、自然言語によるチャットというインターフェースを備えている。

このパラダイムシフトは、開発者たちの意識に決定的な変化をもたらした。現在のトップエンジニアたちは、単に便利な道具を作っているのではなく、創造主のごとく「世界そのものを再構築する」という途方もない野望を抱き始めているというのが藤幡氏の診断だ。

「コンテキスト」から「存在論(オントロジー)」へ

LLMがOS化するなかで、AI企業の戦略もより深層へと向かっている。米軍とも深く関わるAI企業アンソロピック社のダリオ・アモデイは、表面的な「プロンプト・エンジニアリング」の時代は終わり、AI内に文脈を構築する「コンテクストエンジニアリング」へと移行しつつあると宣言している。

だが藤幡氏は、さらにその先を見る。問題はもはや「どんな文脈を与えるか」ではなく、AIが世界をどのような存在の体系として把握するか、つまり「オントロジー」の設計に移っているのではないか、というのだ。

実際、米軍を強力にサポートするデータ分析企業パランティア社のCEO、アレックス・カープは、「コンテキストよりも存在論(オントロジー)の把握が重要だ」と主張している。ここでいう「存在論」とは、現実世界の事象や関係性を構造化する「概念的地図」を意味する。

ここで藤幡氏は、ニクラス・ルーマンのシステム論を参照する。ルーマンによれば、法システムは「合法/違法」、経済システムは「支払い/不払い」、科学システムは「真/偽」といったように、社会の各部門は全く異なるコードで作動している。

ところがカープは、組織横断的な意思決定やコミュニケーションを成立させるために、これら異なる「存在論(オントロジー)」をテクノロジーによってカップリングさせようとしているのだ。

これは、かつての日本軍に見られたような、陸軍と海軍のコミュニケーション不全すらも解決しうるようなアプローチであり、現代の戦争がすでに情報技術による「存在論のハッキング」のレベルに到達していることを示唆している。

アンドレイ・カルパシーによる分類のスライドを見せながら話す藤幡

「欲望の三角形」を加速するアルゴリズム

続いて、パランティア社のもう一人の中心人物であり、PayPalマフィアのドンでもあるピーター・ティールの思想的背景にメスが入った。

ティールはスタンフォード大学時代に、フランスの思想家ルネ・ジラールから教えを受けた。ジラールが提唱した「欲望の三角形(模倣理論)」とは、人間は自律的に「これを欲しい」と欲望するのではなく、「他者(媒介者)が欲しているから自分も欲する」という構造を持つという理論だ。かつては隣人や映画スターが媒介となっていたが、現代ではソーシャルメディアやAIのリコメンドエンジンが強力な媒介者となっている。

この模倣の連鎖がアルゴリズムによって加速するとどうなるか。「あの人が『いいね』って言ってるから、いいに違いない」という同調がエスカレートし、やがて「模倣的ライバル」同士の終わりなき競争へと変貌する。そして共同体が飽和状態(危機)に達した時、人々は「スケープゴート」を求めて炎上を引き起こし、誰かを排除することで新たな連帯を保とうとするのだ。

ティールはこの理論を現実社会で「実験」するために、初期のFacebookに50万ドルを投資したのだという。藤幡氏が「ルネ・ジラールは理論だけだけど、ピーター・ティールは金払って、それを具体的に実験する現場をFacebookで作ってしまった」というように、一握りの富豪が独自の思想と巨万の富を用いて、我々の社会全体を実験場にしているのが現在のテクノロジー資本主義だろう。

ARは「記憶の権力」を可視化する――「Be Here 1942」

このような絶望的なテクノロジーの独占と暴走に対して、アーティストはどのように対抗しうるのか。後半の議論は、藤幡氏自身の実践であるロサンゼルスでの展覧会「Be Here 1942」の紹介から始まった。

「Be Here 1942」は、1941年の真珠湾攻撃後、人種差別的なヒステリーによって西海岸の日系アメリカ人が強制収容所に送られたという「アメリカンデモクラシーの最悪の汚点」を、AR(拡張現実)技術を用いて可視化する試みだ。

藤幡氏は、ARを単なるエンターテインメントの道具としてではなく、「記憶とか記録とか、そういうものをそこに実現させることができる」メディアとして捉えた。全米日系人博物館(JANM)の前で、実際に強制収容所へと向かうバスを待つ人々の姿を、ボリュメトリック技術を用いて等身大の3D映像として立ち上がらせたのだ。

この作品の批評的な点は、残された「写真」の背後にある「視線」と「権力」の構造を暴き出したことにある。当時の記録写真を精査した藤幡氏は、写真の中には決して写らない「カメラマン」の存在、そして、そのカメラマンの背後で「あれを撮れ」「あれは撮るな」と命令(コマンド)を下すMP(ミリタリーポリス)や政府役人の存在に気づく。リベラルな表現者であるはずの白人カメラマンもまた、国家の道具として組み込まれていたのだ。

展覧会では、iPadを掲げてAR上の日系人たちを見つめる鑑賞者は、知らず知らずのうちに「弱者を撮影する白人カメラマン」の立場へと置かれることになる。「iPhoneをみんなは『見ている』と思っているんだけど、向こう側から見るとそれはカメラマンなんだよね。当時、その強制収容所に送られる『弱者』である日系人を撮影していた『白人』の立場に、iPadを持って歩いている時にはなっているということ」。

「『撮影する』と『撮影される』、『見る』と『見られる』ことが全部ここでクロスしてる」という藤幡氏の言葉通り、この作品は、テクノロジーがいかにして人間を枠付け、権力構造の中に配置するかを鑑賞者自身の身体を通じて体感させるものだった。

Be Here 1942を紹介しながら話す藤幡

イサム・ノグチのデザインと岡潔の「情緒」

強制収容のテーマは、世界的な彫刻家であるイサム・ノグチの知られざる実践へと接続されていく。日系アメリカ人であるノグチは、自身が直接収容の対象でなかったにもかかわらず、自ら志願してポストン強制収容所に入所した。

彼はそこで、単なる収容施設ではなく、人々が人間としての「尊厳」を失わないようなコミュニティをデザインしようと試みた。興味深いのは、ノグチがそのプランの中に「墓地」を組み込んでいたことだ。多くの人々が「戦争は3ヶ月で終わる」と楽観視していた中で、ノグチは死者に対する尊厳をコミュニティの基盤として見据えていた。

軍隊が機械的かつ効率的に作り上げるキャンプとは対極にある、人間の生と死に寄り添うデザインの思想がそこにはある。

このノグチの態度は、後に彼が手掛けた札幌の「モエレ沼公園」の設計にも色濃く反映されている。モエレ沼はもともと産業廃棄物や残土が埋め立てられた処理場だった。ノグチはこの傷ついた土地を再生させる仕事を引き受け、「自然から隔離され、人間によって捨てられてしまった土地を人間のものに取り戻す」ことに自身の仕事を見いだしたという。

藤幡氏によれば、彫刻家からも建築家からも「彼は専門外だ」とスポイルされがちであったノグチだが、彼の作品の根底には、単なる西洋的モダニズムには収まりきらない、環境や人間の情動と深く結びついたスケールが存在している。

西洋由来の圧倒的なテクノロジーや資本主義の論理に対して、いかにして別の論理を対置するのか。その手がかりとして藤幡氏が持ち出すのが、日本の天才数学者・岡潔が提唱した「情緒」という概念である。

岡潔は、自らがフランスの数学者も驚くような難問を解くことができた理由を「情緒」の力だと説明した。それは論理的な計算能力ではなく、朝早くに聞こえてくる豆腐屋のラッパの音や、朝の味噌汁といった「日常の気づき」に根ざした感受性のことだ。

文化の奥底で育まれる情緒は、人間の側の感受性によって研ぎ澄まされて、そこに独自の思考回路が生まれる。パランティアが追求するような、世界のシステムをコード化し、合理的にカップリングさせる存在論的テクノロジーとは根本的に異なる、風土や生活に根ざした人間の知のあり方がそこにある。

アートは“石膏ボード”に亀裂を入れられるか

藤幡氏はこの「情緒」や、西田幾多郎が唱えた主客未分の「場の論理」を、自らのアート実践である「インタラクティブアート」に接続しようとする。それは、観客が与えられたストーリーを受動的に読み解く近代的な美術館の回廊式展示ではなく、「作品と観客が切り離されているわけじゃなくて、作品と観客が相互作用するとか、観客がそこに入り込むことによって環境が定義されていく」ような、鑑賞者を含めた全体が環境となるような空間の創出である。

講座の終盤、藤幡氏は現代美術家・川俣正の言葉を紹介して、現在のアーティストが置かれた困難な状況を吐露する。

「川俣正は、『シーツみたいなものが壁いっぱいあるとするじゃない? アートなんてそこに針くらいの穴を開けるくらいしかできないんだよね』と言ってました。『それでも開くだけいいんじゃないの』と。いまはもうシーツじゃないよね、石膏ボードに、ちょっとヒビくらい入れられないかという感じですよ」

ピーター・ティールやアレックス・カープ、イーロン・マスクといった一部の巨大な富豪たちが、テクノロジーを武器に、ハイデガーのいう「ゲシュテル(総駆り立て体制)」を推し進め、戦争すらもそのシステムの内に組み込んでいる。

それに比してアートの力は、あまりにも微力に思えるかもしれない。しかし藤幡氏は、この強固な石膏ボードのようなシステムの壁に対して、「イサム・ノグチや岡潔、岡本太郎など、先人の中で使えそうな人たちのチャレンジを理解しつつ、そういうものを合わせて、なんていうか爆薬を仕掛けられるかみたいなことを考えている」と、決して抗うことを諦めてはいない。

札幌とニューヨークで展覧会をつくる「DATプロジェクトメンバー」も決定した。

藤幡氏が札幌とニューヨークで試みようとしているのは、単なる展覧会ではない。それは、テクノロジーによって塗り固められた石膏ボードに風穴を開けるための「爆薬」を仕掛ける実験場でもある。

モエレ沼公園のガラスのピラミッド内部を見せながら話す藤幡

執筆者プロフィール

斎藤哲也

斎藤哲也人文ライター。1971年生まれ。人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。編著書に『哲学史入門Ⅰ~Ⅳ』(NHK出版新書)、『試験に出る哲学』(同前)など。編集・構成に『日本メディアアート史』(馬定延・アルテスパブリッシング)、『新記号論』(石田英敬、東浩紀・ゲンロン叢書)、『中国哲学史──諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中島隆博・中公新書)、『ものがわかるということ』(養老孟司・祥伝社)ほか多数。